風通しのよい家

 

 住まいって、住むって、どういうことなのか?という問い直しが必要なのだと思う。
 縁側って、今の子供たちは知っているのだろうか?子供に聞いてみたら、「それトトロの中で、おはぎを食べていたところでしょう?」という答えが返ってきた。

縁側の記憶をたどってみませんか?

 縁側に座って、お茶を飲む。スイカを食べる。目の前には庭がある。花が咲く。実がなる。草木の変化がある。夏の夜には線香花火。子供たちが遊んでいる。満月に、月見酒。子供はだんごをほおばる。隣のおばさんが長話しに来る。夏の昼寝、風が涼しくふれてゆく。40代以上の日本人にとって、居心地のいい記憶がよみがえるはず。
それは隣の家との、子供たちとの交流の場であり、四季を楽しむというより、自然の中で暮らすのに近い、宇宙と接する場であった。
縁側に座って、お茶を飲む。庭のある空間でお茶を楽しむガーデニングの源が、ここにある。お茶がアールグレーに変わり、草木の造作が少し変わったが、イギリス人があこがれ、今やガーデニングとして逆輸入されている日本の文化は、縁側という「場」が、生みだしたのだ。

人と人との風通し

 家の中に入ると、そこでも、風通しの悪い家は嫌われた。冬は、家族がひとつの炬燵を囲んで、火鉢でお餅やお煎餅を焼いた。そこで、みんなでお茶を飲んだ。

  風通しは、家族関係の風通しと同義語だ。子供に鍵がかかる個室を持たせるという行為が、愚挙だということにそろそろ気がつかなければ。気づくということは、そのシステムを、その設計を、その意識を見直すということ。

  人と人との風通し。それは、日本の住まいが育んでいた、親と子との、夫婦間の、近所の人との、風通し。プライバシーという言葉で、そのすべてを台無しにしてきた。
風通しがいい、ということは、人の気配を感じることができるということ。子供の声から、足音から、子供の状態を知るのが、日本人の母の役目だった。自分の子供の足音の特徴さえ、知らない親がいる。

  近所の人から、自分の子供のことを聞いたことがありますか?人の目から見た、子供の姿。そんな客観的な回路を失っていませんか?「うちの子に限って、そんな・・・。」どうして、そんな間の抜けた言葉をすべての親が、口にするようになったのか?それを「住まい」「家」という観点から、見直してみませんか?

 風通しの悪い家には、ダニが増える。カビが繁殖する。みんなあたりまえのこととして、知っていたはず。そして、ペットボトルの中に入れたアリに、煙を吹き込むように、化学物質が充満した家をシックハウスというらしい。化学物質を使ったから、高気密だから、シックハウスなのでしょうか?人と人の風通し、人と宇宙との風通しを「感じない」不感症の建築家が建て、住む人も、「風通し」に不感症になったから、シックハウスが生まれたのでは?

「風通し」から「見通し」へ

 月が見える家がいい。朝日夕日が見える家がいい。家から見えなくても、庭から、あるいは、隣の家のベランダから、少し離れた高台から、夕日が見える。そんな住まいかたがいい。家の中での風通しは、外に出たら見晴らしになり、それは見通しになる。

 とうとう、子供の四人に一人が、朝日も夕日も生まれてから一度も見たことがない。(朝日新聞朝刊のトップ記事)と答えるらしい。次の満月が、いつか知らない親や教師達。
シックハウスは、家だけの問題ではない。シックスクールといって、化学物質過敏症によって、登校できない子供が50,000人いるとも推測されている。

 「環境」という意味をとらえ直しませんか?環境とは、まわりのもの、まわりの人、まわりの草木、林、森、山、川、大地、地球、そして、月、太陽、星、宇宙のこと。言葉通り、まわりのもの、「環境」を感じてみませんか?まわりのものを意識してみませんか?それが、「環境意識」。まわりのものを「感じる」「意識」するということだ。

  「風通し」という言葉には、「縁側」の居心地には、環境意識がある。つまり、まわりを感じるということ、孤立して生きているのではなく、すべてがつながっているという、人という生命が存在するための基本的な認識があると思う。

  このまわりを感じるという環境意識にまで、立ち戻らなくては、環境建築という言葉に、命を吹き込むことはできないだろう。

柳瀬宏秀